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新しい会社の目的

「豊かな心」をもつことによって高次意識につながるのです。なぜなら高次意識の波動そのものが豊かな心と同じ波動だからです。
 さあ目指しませんか、豊かな心を、あなた自身の手によってつかみませんか。こぼれるような幸せを。

※豊かな心 とは
満つる心。
隠せぬ思い、愛の心を知る心。
幸福を与える心。
笑み・喜び・安心・隠せぬ喜び
言葉に光あり、幸せまく美しき心。

輝く星の創造
 

 この地球を美しき惑星へと創造することがそれぞれの企業の経営目的となります。地球との新しい関わりを、それぞれが見つけることです。地球は大いなる意識をもった生命体です。人間はこの大いなる意識をもつ大地より生まれ、この地球に存在しています。
 地球と呼ばれる意識の海は「輝く意識の海へと変わる時」を迎えています。地球は「浄化の時」を迎えています。地球の浄化は「魂の浄化」をもたらしています。浄化のスピードは一段と速くなっています。浄化により人間の意識の目ざめも加速されつつあります。企業は、地球の浄化という視点から、それぞれの役割を創造します。美しき地球の構築の時です。人間の活動が地球規模で動いていることをとらえられる意識の段階に至りました。輝く地球の創造への参画が未来に会社が存続できるポイントです。
 例えば、地球環境について意識を拡張して創造することです。これから企業は、取り扱う商品そのものの存在理由を問われます。その商品が心にとってどうしても必要なものなのかどうか、地球環境の視点ではどうなのかを問われます。意識の拡張への移行の中で新しき地球への創造、輝く未来への創造が、多くの企業の経営目標になっていきます。地球の大いなる変革の内から、我々は地球に何ができるのか、どのように未来に関わっていけるのかということが、新たな会社の創造となります。
 企業は豊かなる意識のめざめへと意識を結集し、新しき地球創造の核となるのです。



生きていく過程で学ぶものは次のようなものがあります。

人間とは、人生の目的は、幸せとは、心とは、
創造とは、勇気とは、信頼とは、自他とは、
愛とは、誠とは、誓いとは、宇宙の原理とは、

などですが、一つだけといえば、生きている目的を知ることでしょう。それは人間とは何かを知ることになるのです。進化して求められることは一ツ、豊かな心を持つこと。この一点といってもよいでしょう。この為にこの事を学ぶ為に色々な人生講座が用意されているのです。
 「問題や困難・幸せ・不幸せ」
 すべてが生きていく過程で用意された学びで、心の向上に欠かせないもの。
 生きている目的は豊かな心になるため。
 人生において各々が学びの講座を自分で選んで生れて来、人生を歩んでいるのです。

(一)肉体に関すること   老・病
(一)富に関すること    お金・物(現代では家・車)
(一)本能に関すること   性・食・睡欲・肉体上の悦楽(衣・食・住)
(一)人に関すること    家庭・結婚・親子・友人・夫婦
(一)社会に関すること   認められたい、支配欲・名誉欲
(一)時と場所に関すること 時間・空間
(一)自己実現に関すること 達成・合格
(一)求めに関すること   神・真・善・美

 108の煩悩といわれますが、人々のとらわれること、執着するもの100人100通りであって、すべてが学びの講座となっています。この中のどれ、どれを選ぶかは、あなたが決めています。自分ではわからないと思っているのでしたら、これまで生きていて、いつも大変だった問題があなたの受講している講座です。
 何度も何度もくり返し通過していますから、すぐに気付くはずです。この手の問題はもう大丈夫と思っていても、それは基本問題が解けたのであって、応用問題ではすぐに引っかかってしまいます。その講座を受講しなくてよい時とは、その方向の問題がもはや生じることがなく、生じた問題の方から消滅する時です。
 あなたに押し寄せる問題からあなたが逃げなければ、必ずあなたは解けるのです。そのようになっています。逃げたりパスするともっと大きなその種の問題がまたやってきます。
 さあ、自分自身の内なる力を信じて、問題や困難に立ち向かって下さい。向かった分だけ、勇気と自信を持ちすばらしいことが起こります。そして今までの問題や、困難がたいしたことではなかったことを知るでしょう。
 その時あなたの心は進化したのです。


『天与の花』

 昔むかし、あるところに一粒の花の種がありました。お百姓は、来年の春になったら蒔こうと種を袋に入れて納屋にしまったきり、この種のことをすっかり忘れてしまいました。
 納屋の中は、時には焼けつくように暑く、また、時には凍てつくほど寒い日もあったので、種は次第に衰弱し、自分がどんな植物でどのような花をつけるのか憶えていられなくなってしまいました。
 何回目かの春が巡ってきました。ある日納屋の片付けに来たお百姓は、この種を見つけ、今年こそは蒔いてみようと思うのでした。実を言うと、お百姓にも、どんな花なのか憶い出せなかったのですけれど。
 お百姓は毎日やって来て、「早く芽を出せ」と急かせました。種は慌てて芽をのぞかせました。お百姓は「もっと、もっと大きくなれ」とわめきました。双葉は急いで背伸びしました。お百姓が「枝を張れ、葉を茂らすのだ」と命じたので、苗は頑張って枝を広げました。「枝ぶりが優雅でない」と文句を言われて、枝は精一杯しなを作りました。
 お百姓は「花を咲かせろ」と言い募りました。枝は可憐な花をソッと咲かせました。だが、お百姓は「もっと大きく華やかで、もっと美しい花をつけるのだ」と言うが早いか、その花を無残にも摘みとってしまったのです。
 木は余りの痛さに気を失いました。だが、お百姓は、その木を揺すぶり起こして言いました。「私が望むような花を咲かせないのなら、お前を根こぎにしてやる」と。
 「まだ、死にたくない、どうぞ生かしてください」植物は泣いて頼みました。そして望み通りの花を咲かせようと誓うのでした。
 花は美しく咲き、道行く人に愛想よい笑顔を振りまきました。誰もがこの花を愛し、その優雅さを称えました。だが、無理に品を作っている苦しみや花を摘まれた痛みを押し殺していた植物が、次第に感じる心を失っていったのでした。ふと心に虚しさが忍び寄りました。こうまでして生きていて何になるというのでしょう。急に張り詰めていた心の糸が切れる思いに、花は生気を失って萎え、葉は枯れて落ち始めました。お百姓はこれを引き抜き、道端に打ち捨てました。真夏の暑い昼下がりのことでした。
 通りかかった旅の若者が、この木を見つけ、だいじに持ち帰って自分の庭に植えました。畑を耕したっぷり水を与えて、「ゆっくり身も心も癒しなさい」とい言うのでした。若者は夏に植えかえたこの木に「夏生」と名づけ、「十分時間をかけて、本当のお前として育ち、お前の花を咲かせるのだよ」とやさしく言いました。
 生まれて初めて、自分らしく生きることを許された‐‐それは何と喜ばしくも、恐ろしいことなのでしょう。人の命令に従うことも、誰かの真似をすることも出来ないのですから。
 春になり、あたりは美しい花が色とりどりに咲き、秋にはみごとな果実を結んでも、夏生はあいかわらず丸裸。でも若者は、毎日やって来ては水をくれ、しばし腰を下ろしていくのです。「していただくばかりで、何のお返しも出来ないのが、心苦しくてなりません」「いやいや、私はこうしてお前と共にいるのが嬉しいのだよ」
 夏生はほとほと情けなく思いました。自分で自分が何だか解らない‐‐どうなりたいのか解らないなんて、何と悲しいことでしょう。長いこと押し殺して、感じるのを自分に許してこなかって、痛みが、苦しみが、怒りが、嘆き憤りが心の底から湧き上がり、涙とともに溢れ出てきて、思いっきり声を上げて泣きました。これまで一度だってしてこないことでした。
 泣くだけ泣くと、痛みや苦しみが静かに去り、生きている喜びや、若者への愛、青く澄み切った空に浮かぶ雲の美しさへの感動で心が震えるのでした。「ああ、私にも感じる心があった。」
 ゆっくりと、だが、確実に生命の息吹きが感じられました。この小さな生命に宿っている天与の花がやがては咲く日も来るでしょう。

自らの持つ強い認識(常識)や、強い正しさが、困難な感情を引き寄せ、困る出来事になっていく。

 
   


 

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