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法華経で現在を生きる

蓮の華は、泥水でしか咲きません。その泥水も濃いほど、大輪の花が咲きます。どんなに汚れた泥の中でも、決して汚れや泥には染まりません。咲きそこなう華(あだばな)もありません。100%の蓮がきれいに見事に咲くのです。そして、華と同時に実がつきます。本来、私たち人間もそうなのです。今の時代にこそ大輪の華が咲くのです。
あなたの大輪の華を咲かす方法、それが法華経(お釈迦様の教え)です。

連載第3回 「宝の山に入りながら」
 

私がよく「思えば、なる」といいますが、これをただ自分だけの「自己実現」のように思っている方がいます。そうではなく、「宇宙全体をまき込んだ自己実現」なのです。壮大な「宇宙の生成発展」のための使命なのです。少し大風呂敷を広げましたが、21世紀初頭なのでこれくらい勘弁してください。
さて、「思えば、なる」というコトバをもう少し説明しやすく、「思われれば、なる」といいなおしてみましょう。受身にしたことには深い意味があります。
あなたの願望が、「思ったこと」なのか、「思われてきたことなのか」、が問題です。思われるためには、どこかに「自分に対して思わす存在」があります。
その存在は、心の奥のそのまた奥にあり、私たちに対して小さな声がささやきます。その声を、耳をすまして聞いてみると、「ああそうだ」と思うんです。そして「思われたことは、すべて実現する」んです。
ところで、私たちは3つの部分に分かれていて、「肉体」という部分、普段精神と読んでいる「我」という部分、そして、「我」の奥に永遠に深く広大に拡がる「吾」という部分があります。「吾」の部分は「無意識」「潜在意識」「深層心理」など、いろいろな言われ方をします。仏教では、ただの深層ということではありません。この部分で直接「ほとけ」とつながっているというんです。ですから、「思える」ということは、「ほとけの声が聞こえる」ことです。そのことによってあなたの願望のすべては実現します。
お金持ちにも、大スターにも、政治家にもなれますが、「あなたはこうなりますよ」と声が聞こえてきたら、つまり、「思われること」はすべて実現するということなんです。
多くの人は宝の山に入りながら、その宝を掘り出そうとしないし、心の底にそんな宝の山があることも気がついていないんです。

【衣珠の喩え】
ある男が友達の家を訪ねていきました。友達は喜んで、男を迎え入れ、お酒を飲むことになったのです。いい気持ちで、ぐっすり寝てしまい、すっかり寝坊します。
友達はまだ男が寝ているので、起こすのも忍びないので、男の衣の端に、生活費の足しになるように、宝物を縫いつけてあげておいたのです。それで仕事に出かけてしまいました。
さて、男が起きてみると、友田津はもう仕事に行ってしまっているんです。こういうときは、どうもバツが悪いので、男も出発してしまいました。
男は他国を流れあるき、すっかり落ちぶれて、食べるにも苦労しました。しかし、自分の「みすぼらしい姿」にも気がつかない様子です。
そんなある日、たまたま、あのときの友達に出会ったのです。男がとてもみすぼらしい姿をしているので、友達は嘆き悲しみました。そしてこう言います。
「君は、どうしてこんなに貧乏になってしまったのですか。僕は、君が裕福に暮らせるようにと、宝物を服の端に縫いつけておいてあげたのに・・・」と。
男はびっくりして、服の端を見ると、「ここにまだ宝物が縫いつけてあるじゃないか。ちっとも気がつかなかった。これを使えば、もっと安楽にできたのに・・・」 『法華経』 (岩波文庫)

【「吾」の声を聞くこと】
さて、私は、「会社の経営状態が悪化しているけれど、どうしたらよいか」と。相談を受けます。その会社の経営者は、見栄やら、かつてのシガラミやらで、タイヘン苦しんでいるのです。このくるしみはたいてい「我」からでたものです。「我」はガーガーとうるさくしますから、「吾」の声をジャマして、よく聞き取れません。「我」に黙ってもらうと、やっと聞こえるんです。(私は「頭を飛ばす」といいます。)
「吾」は「もう倒産したほうがいいよ」とか、「もう少しガンバったほうがいいよ」とか、いっています。ですから、そのコトバにそって、行動するだけでいいのです。その「心の吾」のことを「悟(さとり)」といいます。
永遠の過去に、「ほとけ」が私たちの心の奥に「種」を植えてくれました。
『法華経』の喩えでは、友達(ほとけ)が衣に宝を縫いつけてくれたのに、ある男(私たち)が気がつかないで、貧乏していたんです。その宝を掘り出すのが、21世紀の私たちの仕事なのです。

 
   


 

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