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法華経で現在を生きる

蓮の華は、泥水でしか咲きません。その泥水も濃いほど、大輪の花が咲きます。どんなに汚れた泥の中でも、決して汚れや泥には染まりません。咲きそこなう華(あだばな)もありません。100%の蓮がきれいに見事に咲くのです。そして、華と同時に実がつきます。本来、私たち人間もそうなのです。今の時代にこそ大輪の華が咲くのです。
あなたの大輪の華を咲かす方法、それが法華経(お釈迦様の教え)です。

連載第1回 「お釈迦様でも気がつくめえ」
 

「お釈迦様でも気がつくめえ」という歌舞伎の切られの与三のセリフがあります。「お釈迦様が気がつかない」とは、なかなかおもしろい喩えです。
釈迦はサトリを開いて、ブッダになりました。ブッダとは「目覚めたる人」という意味で、宇宙の真理に目覚めた人です。その教えの体系が仏教です。宇宙の真理について目覚めたのですから、きっと何でも「気がついていた」のでしょう。
さて、これから5回にわたりまして、「法華経で現在を生きる」をテーマに語って行きます。「法華経」は釈迦の死後500年経って作られたお経です。釈迦の生涯の最後の8年の説教の内容とされています。
俗に、釈迦の入滅後、釈迦の教えが消えてしまう時代を末法といいます。
「何年から末法と呼ぶか」という説がいくつかありますが、実際の年号などより、仏教が本来あるべき姿を失った時が、末法なのでしょう。
現在、仏教は葬式仏教になったり、金儲け仏教になることが多いようです。まともな僧侶がいたかと思えば、山に籠もって、ひとりで修行に耽ってしまう方が多いようです。
釈迦は、現在のような状態について、十分、知っておいででした。そして、そんな人間、とりわけ僧侶がいかに、釈迦のようなサトリを開けるか、その方法を示していました。実は、「法華経」とは、現在のような末法的な状況、その状況下での生き方を示した書なのです。今日のような危機的状況も、「お釈迦様は気づいていた」ワケなのです。

【蓮の花は泥の中で咲く】
「法華経」は正しくは「妙法蓮華経」といいます。「妙法」は「不思議な教え」ということです。「法」は真理、または宇宙の法則のようなもので、一般的な先生の教えではありません。
「蓮華」とは蓮の花ですが、日本で言う睡蓮です。蓮の花は泥の中でしか咲きません。泥は、末法的な現在社会と考えてよさそうです。
苦に満ちあふれた我々の世界を「娑婆(シャバ)」といいますが、「蓮の華」はそんな世界だからこそ、花が咲くといっています。
まさに、現代社会にどうやって生きたらいいかを教えてくれる書なのです。
けっして、「欲望を捨てろ」とはいいません。欲望や煩悩は娑婆世界の象徴ですが、それこそがサトリへの道だといいたいのです。蓮の華は「華果同時(けいかどうじ)」といって、華と同時に実がつきます。他の植物は、花が咲き終わって、実がなりますが、蓮は華と実が同時です。つまり生きていることが目的なのです。

【多次元から未来を説明する】
21世紀を迎えるにあたり、「法華経」の意味がわかってまいりました。まさに、現代において最も必要な書物です。仏教経典のほとんどは、釈迦の説法の内容をその後の経典の作家たちが書いたものです。
そのため書きだしは「如是我聞(私はこのように聞きました)」で始まります。もっと噛み砕くと、私はこのように理解しました、ということでしょう。お釈迦様の説は尊すぎ、なかなか理解できません。
「法華経」にしましても、人間を超えた宇宙的レベルで物事を説明していますので、むしろ現代や21世紀の人間の必読書になるでしょう。宇宙的な意味がやっとわかってくるのです。
広大で、かつ神秘的ロマンに満ちあふれた書なのです。そして、来るべき世界の予言です。その「予言」には地球の危機や人類の救済を説かれています。

【法華経の既成概念を捨てよう】
人間が「法華経」を自分の生活レベルから理解しようとすれば、ほとんど意味がわからないでしょう。しかし「法華経」をそういった狭い世界に閉じこめていいのでしょうか。
「法華経」を狭いところに閉じこめるということは、自分の命を「生涯」という範囲に閉じこめていることです。もし、今をもっと有意義に、楽しく、イキイキワクワクと生きていたいなら、もっと別の次元に立ちたいものです。
反対に「法華経」を宇宙的なレベルで理解することは、自分の命を高い世界へと開放することなのです。
さて、「法華経」は「法華経七喩」といわれるほど、わかりやすい喩えでその教えを述べています。しかし、その内容はあまりにも神秘的で、高度で、多次元的なのです。まさに霊的世界ともいえます。
仏教の教えには、「娑婆即寂光土」と言うコトバがあります。娑婆世界こそ、そのまま寂光土(サトリの世界)だというのです。法華経の方法に従うと、自然に、その方法が理解されるのです。まさに、人間の理屈の世界を越えて、ストレートに寂光浄土を顕現させようとするものなのです。それでは次回より「法華経」の真髄に触れていこうと思います。

 
   


 

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