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  覚醒編 19. ためになることは小声でささやきましょう
 

自分を表現する時、時として他人の目には自分勝手やわがままに映ることがあります。

常々信者さんには「お寺のために拝んだり、お金を使う必要はない。自分の幸せを拝みなさい」と言い続けました。私は、お寺や宗門に逆らおうという気もありませんでしたし、自分を救ってくれた教えを批判するつもりもなかったのですが、この姿勢が、「お寺や宗門の軽視」に見られてきました。結局のところ、私は宗教批判をしたということになりました。私のした行動がそう、映ったのです。私自身は信義にも基づいて行動したのですから別に謝るつもりもないのです。そして、訂正する必要はありません。むしろ、自分の信念を貫くという人間こそ「はた迷惑」な人なのかもしれません。人に道理を説く人ほど、おせっかいなものはありません。そういうものに触れる時、多くの人は見ないようにして、また、聞こえないようにします。

それでも言うようだったら、遠ざけてしまいたくなります。普通の方はそれでもいいが、人に説かなくてはいけないものは、たとえ耳を塞がれても僧侶は説かなくてはなりません。やっぱり人のためになることは言っておかなくてはなりません。そこで耳を塞がれないためには、ためになるには「小声で」、つまりこっそり説くのです。耳を塞がれないために、よいことは「隠して」します。
目立ってよいことをしたり、表立って、正しいとことを主張すれば、すぐに抹殺されそうになるのです。人にアドバイスするのも、できるだけそれとなく、行動する事が大事です。

私は、八丈島でひっそりと、個人的に正しいと思うことをやってきたんです。別に多くの人に知らしめようとか、人を集めようとしたことはないのです。
本当に「小声」で「隠れるようにして」自分の考えをみんなにぶつけたんです。しかし、それさえも目障りと感じたりする人がいたり、うるさいヤツと思う人がいます。
自分の主張や信義に基づいた行動が、「自分勝手」に映っているケースは意外に多いのです。
我がままとイキイキ、ワクワクは、本当に紙一重です。一歩間違えば、自分勝手でわがままな行動としか思われないのです。

確かに私は後悔は微塵もなく、何が起こっても大丈夫です。しかし、私の行動も宗門からは目障りな存在でしかなかったのです。そして私を追放と言うことにいよいよ決定したのです。私は「破門されたら、還俗して一般社会に戻るのも捨てたものではない」とも思っていたんです。むしろ破門を望んでいたぐらいでした。
しかし、人間の社会は面白いものです。仮にどれほどの信念があろうと、どれほど正しいと言う確信があろうと、それと周りの評価は全く別です。

   


 

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