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2003年2月 中心は仏の教え/仕返し
  我々は*凡夫ぼんぶであり、人間クラブで生活しているわけです。
そうしていますと、自分の見えないところで知らず計らずのうちに心に垢がついたり、ほこりにまみれたりで汚れるわけです。
そうなると、何が基準で何が本当になすべきことか失われてきます。つまり中心がぶれてくるんですね。そこで仏様の光を当てていただき、軸を元に戻すためにお講というものを務めさせていただいています。

仏様の光で、自分の心の闇を照らして頂き、自分の欠点とか思い違いを
「あ、そうか!」
と、分からせていただくことです。御法門とは、仏の教え、これこそ人間の本当の生き方です。その教えに対し、「けれども」という言葉が出てきますとそれはすでに自分の軸がずれているわけです。そのあたりを直していただく為のお講です。全てはとりもなおさず、人間生活をしている以上は知らず計らずの内に垢がつくのですから、その垢をどうしたら払い落としていただけるか大切です。
この御法門は「おかしいのじゃないの?」と思ったらそれが即自分の軸がずれているということですから、そこに気づいて無になってお懺悔さんげの心を起こさせて頂いて信心に邁進させていただくのが第一の願いです。

『人間は平和と幸福をもたらす心構えを身に付ける為には仕返しをしてはならない。敵を傷つける前に自分を傷つける結果になるからだ。自分の人生の一分間たりとも無駄にしないために嫌いな人について詮索しないことだ』
というのが仏の教えですが、「そうはいうものの」「自分はそんなこと思いたくないのに、相手がこうだから」という言葉がどうしても出てくるんですね。この出てきたこと自体が汚れですからそれに気付いてこれが仏から光を与えていただいていることだなと心の底に刻み込んで自分が改善させていただくことです。
『世の中の苦しみも楽しみも自分が招いたことですよ。』
というのが仏様の教えです「そんなことありません。私はこんなに一所懸命なのに・・相手が悪いのです。」というのは我の心で、自分の思いを言っているだけです。自分の思いを変えるためのお講です。

私が今お話しているこの言葉を通じて仏様は我々の心に光を当てておられるわけです。これが基本ですから、これに反したことが自分の心の中に起こってくるようでしたらこちらの方がおかしいのです。教えというものは永遠で変わらない。変わるのは我々の心の方で、その心によって苦しみも楽しみも招いているのです。

*凡夫ぼんぶ
教えや心の修行で悟りを開こうとしても開けない者のこと。末法の時代に生まれたわれわれのことである。そんな我々の悟りを開く方法としてお釈迦様は法華経を与えてくださっている。



      二月 の言葉 
            
● ● 危 所 遊 きしょゆう● ●
          転依           よりどころを転じる           不幸不満を喜び感謝に転じる           トルストイ           宗教とは精神の方向転換だ  御教歌 --- 世の中をうらむはおろかかいもなし 苦楽はおのが報い也けり --   「人間は平和と幸福をもたらす心構えを身に付ける為には仕返しを    してはならない。敵を傷つける前に自分を傷つける結果になるか    らだ。    自分の人生の一分間たりとも無駄にしないために嫌いな人につい    て詮索しないことだ」         エピクテトスは千九百年も昔に、われわれは自分のまいたものを    刈り取る。そして運命はわれわれの悪行に対しては災いで報いる    と語っている。    「結局のところ人間はだれでも自分の過ちに対して償いをさせら    れる。    そのことを良く知る人間はだれにも腹を立てず、だれをも恨むこ    となく、だれの悪口をいうこともなく、だれをも非難せず、    だれをも不快にすることなく、だれをも憎まないであろう。」
 
   


 

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