「しんねん」という字は世間一般では「新年」と書きますが、私の場合には「新念」と書きます。
新しい念というのは過去の念(過去の思い)を切り捨てて新しい念に切り変えていくという作業です。ご信心というものを何のためにしているかといいますと自分の意識や念を変えるということです。「念」というのは「今」の「心」と書きますね。今の心を新しく変えるわけですから、昨日まであるいは去年まで今までの習慣でよりどころにして生きてきた、その念を変えていく訓練なのです。
皆さん自分の思ってきた思いで生活しているわけですが、大方の人の苦しみ悩みの根源はそのままの生活が続けられたら安泰と思っていることですね。ところが、それではいつまでたってもその領域を脱皮できない。常に念というのは変わらないとおかしいのですね。
それなのに、変えていけば今までのよりどころとしていた何かが外れるように思え、ものすごく頼りなく思うわけですね。今まで自分はこういうポリシーのもとで、人間というのはこうあるべきだ、こうでなかったら・・・ということをよりどころにして生きてきたわけで、それをはずすということになると何をよりどころとして良いか分からず非常に不安になるのですね。だから大方の人はその念を変える、意識を変えるということをなかなかやらない。今までのよりどころで生きて行くことがなんとなく安泰のように思うわけです。そこが落とし穴です。ですから落とし穴にはまらぬよう、法華経の教えに心を合わせるのです。そうすると自ずと念が変わります。今の心の照準を常にそこに合わせて生きるということです。
「如風於空中 一切無障礙」 いう御文があるのですが、本来人間というものは一切無障礙なんです。風の空中をさえぎるものがない如く大空を風が横切る時に一切の差障り、つまり、風にとって行く道を阻む雲とか木とか壁とかが全くなく、大空を自由に駆け抜けるのが人生なんです。
ところが皆さんそこに障害が出るわけですね。何で障害が出るかというと自分の妄想、雑念、よこしまな念、我執、我欲、過去のとらわれの心、そういうものがありますとそれが壁になってバーンと突き当たるわけです。それが罪障といって、障礙になったり障りになったりで思い通りにならないのです。だから、妄念とか概念とか思い込みを外していく訓練をすることです。それには法華経の教えに従うことです。そうすると、一切無障礙になるわけです。風の空中をさえぎる物がないようにすーっと生かせて頂くのが人間の本来の生き方なのです。
それはそうだけれども、人間が生きていくためには3度の食事を取らなければ、健康になるためには8時間睡眠をとらなければ、、、常に世間一般の統計から割り出した標準にあわせて生活しようとするわけです。これは、人間はこうあるべきだ!という一つの概念にとらわれ、自分の意識の中でいろんなものを作り上げていくわけでこれが壁になっているのです。
本来、おなかが空いてきたら食べればいいのです。人のおなかの空くのと自分のおなかの空くのは違うわけです。ところが画一的に朝7時には朝食、12時には昼食、、、と時間どおりに食べないと健康を害する。これは一般的なことを言ってるだけでそれが必ずしも全ての人の健康につながるべきものではないのです。一般的にこうすれば健康になるよ!といわれることに慣らされすぎてるのでその概念を外していけばいいのです。私が生きるのであり、他人が生きるのではないのですから。自分の思いで行けばいいのです。
最近は遺伝子の研究が進んでいますね。その研究の中では、この人は塩分をとっても高血圧にならないとかこの人は塩分を取ったら高血圧になるとか、いちいち人によって違うということがわかってきたらしいですね。
ですから塩分をとりすぎると高血圧になるというのは一般的な統計の話で、それぞれ人によって違うのですね。それなのに、全ての人がそれに従うなんてこれほどナンセンスなことはないですね。
だから遺伝子を究明することによって病気というものはなくなる時代がくるわけです。
ですが今の時代は病気などで大勢の人が苦しんでいます。そうならないようにその前の用意として一切無障礙にさせていただくには法華経しかないわけです。お題目の功徳で妄想とか思い込みとかがなくなるわけです。
今までの経験で、こうすればこうなってしまうんじゃなかろうかという思いでいると必ずそうなってくるものです。そういうものをなくしていく訓練です。お題目を唱えたら、一切無障礙、一切差し障りなく行かせていただけますよ。
お題目に集中するということが、自分の思いを捨てる(無私)ということです。その上で、自分の心の中にあるご本尊に対して私が一番尊いのです!(唯我独尊)と自分の思いで灯明をともすのです。自灯明をともすということです。
お釈迦様の時代にある国の王様がお妃様に質問しました。
「あなたはこの世の中で自分以外に愛しい人はいますか?」
お妃様は瞑想にふけられた後
「申し訳ないのですが私は、自分以外に愛しい人はありません。」
と答えられました。
王様は「それは王様です。」という答えが当然返ってくると思っていたものですから、一瞬頭にきました。
がよくよく振り返ってみると、いくらお妃が愛しいと思っても、一番愛しいのは私だと思いました。これは他人事ではない。この思いは御仏の心にかなっているのかどうか疑問に思い、お釈迦様にお聞きしようと連れ立って出かけました。
「この思いは、仏の思いからかけ離れているのでしょうか?」とお聞きしました。
そこでお釈迦様は
「人間で生きている以上は自分以上に愛しい人は誰もいません。それが人間の生き様で思いです。
さすれば、自分が一番愛しかったら相手にとってもその人にとってその人が一番愛しい人です。全ての生きている人はその人が一番愛しいと思っています。自分以上に一番愛しいと思っている人がないのであれば人もそう思っているのだから、その人の愛しいという思いを害することが生きていく上において一番いのちの生きる目的から外れますよ。」
と答えられました。
これが仏の教えで、それが無私です。自分を愛しいと思っているのだったら相手もそう思っているのだから、自分の思いを託していく、自分の思いを消していくことです。
そしてその上で、なおかつ全部無になってしまうのではなく、なおかつやはり自分が一番尊い、唯我独尊なんです。私の中に一番愛しいご本尊(仏様)がいらっしゃる・・。そのことを信じて生きることです。
人の思いを害しないで(夫婦でもそうです)喜んで自分を愛しみましょう。
「私は、家内(夫)や社員を自分以上に大切に思っていて私に限っては、それは当てはまりません。」といわれる方もいます。
でも、大きく振り返ると、自分の家内だから、自分の会社だから、自分の従業員だから・・結局は自分が一番愛しいということです。
自分以上に愛しい人がいますというと、言葉では綺麗ですが、実際そうではありません。
自分が一番愛しいのですから、それを認めてね。無私(相手の唯我独尊を害しない)で唯我独尊で生きましょう。
「無私」と「唯我独尊」この二つの言葉は全く相反しています。だけどもそこをコントロールしていくのが今年の生き方です。
それがなかなか自分の心だけではコントロールできない、自分の力ではものすごく弱いのです。また、世の中にはいろんな壁があって自分で思ってなくても壁の出来てしまっていることがあり、自分の心ではコントロールできないことがあります。だからお題目に託してね、お題目の功徳で災いをパーんと飛ばして頂きコントロールしていくのです。
御教歌にあるように行住坐臥に唱えて一切の障りを払いのけ即身成仏・・つまり生きながらにして*四苦八苦のない状態になれるのです。
*四苦八苦の状態
生・労・病・死 と 求めても得られない苦しみ・五体からくる苦しみ・嫌な人と一緒にいなければならない苦しみ・愛しい人と別れらなければならない苦しみ
----今年初めての御講です。
今年どのようになりたいか、皆さん断言してください。
断言するとはきっぱりと「○○になります。」と言い切ることです。
「○○になりたいです。」というのではなりたいという状態ばかりが続き、実現しにくくなります。
二千三年 の言葉
●● 一無私で
唯我独尊 ●●
運動場 小学校四年生
「せまいな せまいな」
といってみんなで遊んでいる。
朝会のとき 石をひろわされると
「ひろいな ひろいな」
とひろっている。
-----運動場は伸び縮みしない
遊んでいるときは狭く感じ
石を拾わされるときは広く感じる。
御教歌
--- 題目は 行住坐臥に唱ふべし
口唱即身成仏という --
「口唱は事三千也。唱え死にと云々
諸大菩薩諸天等、御守護也
一辺は一辺の成仏乃至百千万云々
凡夫受持を忘れたれば、
川太郎の頭の皿に水なきが如し
口唱成仏即是也」