HomeShopIkiwakuHelpLink
 
目次にもどる
  自己超越編 43. ワラをも掴みたい時
 

ワラをも掴む思いの時、何でもいいから掴もうとし、もがき苦しみ、結局、取り敢えずそばにあるものを掴みます。私も学問にすがったり、お金にすがったり、『お題目』にすがったり、お寺にすがったりしました。常に、自分を救ってくれるものを「外に」求めました。

そこで出会ったものは確かに、その時の自分を救ってくれたのです。だからとてもありがたいのです。しかし、すぐ次の問題が起き、別のワラを探し続けたのです。
自分の半生はどうも、ワラを捜すものだったと思います。それは、自分捜しの旅だったようです。ワラを掴むこと、絶対沈まないワラを掴むことは、ワレ(自分の根本)を掴むことだと思い至ったのです。

ワレは「我」(利己的な意味ではなく)、心の奥の「吾」(仏性、黄金の仏体、心の先生、使命感といってきました。)なのです。イキイキの源はこのワレです。
ワレを見つけること、いえ、ワレは最初からあることに気付き、声を聞くことで、ワラにもすがりたい状態から救われます。人が救うんじゃない、自分で自分を救うのです。その時、いろいろな助けの手が見えるはずなのです。出会いはもうある。お金はもうある。援助はもうある。捜しても、仕方ないのです。ただ、今、見えないだけなのです。

出会いを捜してもありません。自分が出会える人になれば、意味なく出会えます。お金はいくらでもあります。使える人、必要な人になれば、無理なく手に入るでしょう。恋人が欲しいと言っても、異性は山のようにいます。二人にとって必要な相手なら、恋人になるでしょう。

自分の中のワレを掴む時、すべては現実になります。救いは、自分の中のワレにしかないのです。ワレは「心の吾」心に吾と書いて、悟りといいます。
悟りとは何か、そんなことは分かりません。ただ「自分で自分を自分する」「ワレを掴み、ワレの欲するところ、ワレの行動をする」ことによって、後からでも分かっていくことかもしれません。

私のワラを掴む半生が「ワレを掴む」半生だったのは本書の中で明らかにしてきました。決してなんか偉そうなことを伝える気はありません。自分の答えは自分で示してください。

   


 

  by Google