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  自己超越編 41. 自分を遠くから見つめるのも必要
 

自分を遠くから見つめるのも必要 。しかしそこには、小さなイキイキしかありません。

私たちに修行とか、気付きとかがあるものなら、ただただ、自分の心の奥底にある「黄金の仏体」の声を聞くことだけでしょう。そうすれば、どんな泥沼の中にいても、花をキラキラと咲かす事ができるのです。私たちが自分らしく幸福になるのは、別に誰かから助けらるれからでもなく、また、努力して掴むものでもありません。 ところが、どうでしょう。人は困るとすぐ、助けを求めに行く。しかし、結果はもっと泥沼に入って行きます。もし、あなたが「黄金の仏体」の声を聞き、イキイキさえしつづければ、助けは来ます。
努力は「努力したい人」のところに来ます。しかし、努力によっては何も解決されないのです。行動によって解決するのです。行動そのものが答えです。「人間は結局、努力だ」と思う人のところに「努力」が来るだけです。「私の人生は悩みそのものだ」と結論づけると、「悩み」がプレゼントされるのです。

それは差し当って「努力」や「悩み」がその人をイキイキさせているからに違いありません。「努力」や「悩むこと」も行動の一つです。しかしこのイキイキはそれほど増大しません。恐らく、心の奥底の「黄金の仏体」はさほどイキイキしていないでしょう。それは使命感がないからです。

私はかつて出家しました。そしてその後「離弟」となりました。「離弟」は破門のようなものです。出家とは通常、家、つまり俗世間から出て僧侶になることです。
自分のみのイキイキを求め、家や俗世間を出たのです。しかし自分らしきものを見つけ本当にイキイキし始めると、もう一度、フリーハンドの状態で、家や俗世間に戻れました。そして、人々の中でイキイキを実践することができたのです。多くの人々のイキイキのお手伝いをしてあげたのです。するとイキイキは増大していきました。

自分のイキイキで十分、といいました。それは、「自分をイキイキさせることが他人に強く影響することだ」と言っただけです。しかしもし、悩み苦しんでいるなら、今一度あえて他人のことまで慮る必要はないのです。ただ自分のイキイキのみを目的にすると、悩みでも努力でもそこそこのイキイキは得られますが、「黄金の仏体」は輝かないのです。

家や俗世間から一度出ないと、自分のイキイキすら見えません。しかし、やや見えかかったらもう一度、家や俗世間に帰ることが必要です。それがイキイキの「場」なのです。しかし、帰ると言っても、まったく同じ場所ではありません。

   


 

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