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  接心編 10. 出会いとチャンスは絶妙のタイミングで訪れる
 

「世の中に捨てる神あれば、拾う神あり」と言いますが、まったくです。ただ、「捨てる神」も「拾う神」も同じ「神」じゃないかと思います。同じ神が出会いの時によって、「捨てる神」に見えたり、「拾う神」に見えたりするんです。それは絶妙のタイミングで訪れるように見えるだけです。

逃亡生活に疲れ、結核に冒され、ワラにもすがりたい時でした。京都のある仏門宗派の信者さんが遥遥九州までやってきました。私は「父親が死んだのはあの宗派のせいだ」ぐらいに思っていた(実は、大変なことがあったのです)ので、当然その信者さんも敵だと思っていたのです。ですから妻は信者さんを見るなり、「帰ってください」と言ったんです。それに対し、「お父さんのこと申し訳ありませんでした。」と、いきなり手をついて詫びたんです。これには驚きました。

絶妙のタイミングというのは、「すべてがちょうどいい」ということです。
私が結核に冒されてワラをも掴みたいと思っていたときだからこそ「敵」だと思っていた信者さんの到来や、素直に詫びた態度を受け入れようとしたのです。もし、発病していなかったら、同じように詫びられても、私は彼を受け入れなかったかもしれません。

その頃はまだ、ほとんどの人から見放され、私は妻以外の人間には心を閉ざしていました。むしろ病気になり本当のどん底に落ちた時、誰かにすがりたい、ワラをも掴みたいという気持ちが見え始めてきたんです。

さて、取り敢えず、彼の話を聞こうと思いました。
彼は、「あなたのお父さんの菩提を一生懸命弔いたい」と言ってくれたんです。こんなところまで、私を探しあて、それを言いに来たんです。本当に驚きました。なんとすがすがしい態度でしょうか?心を鬼にするなんてことはできません。彼に対し、本当に心を開いたのです。それ以来、多くの人と出会い、耳を傾けてきました。出会いはすべて、絶妙のタイミングで訪れます。しかし心を閉ざしていては、せっかくの絶妙のタイミングに気付けないのです。不思議な事に、不幸な時、不運なときのほうが、タイミングに気がつく事が多いようです。そしてタイミングは追いかけても無駄です。目の前にあるのですから、ただ心を開いていればいいのです。

人間とは不思議です。その時やっと心を開いたはずなのに、何年来の師匠に会った弟子のように、いろいろと相談しようという気持ちになりました。
私にとって、人生の大きなチャンスのような気がしたんです。

「実は、肺に大きな穴があいているんです。医者は、放っておくと命が危ないというのです。私は、少し以前は『自分なんか死んでも言いや』と自暴自棄になっていたんです。しかし、妻に出会い、あなたにも出会い、やっぱり死んじゃいけない、どうしても生きていたい! って思うようになったんです。自分はどうしたら助かるか、その道筋を知りたいんです。どうか、私を助けてください。」と、ワラにもすがる思いで頼んだのです。

彼は「私は、あなたを助けるなんて、医者や超能力者ではないからできません。だから私にすがられても何もできません。」と言ったのです。けれど、その後こう続けられました。「しかしここからが本題です。あなたの命と体ですけど、死ぬとどうなりますか?命はなくなり、体は火葬にされて灰になりますね。もし、仮に病気が治ったとしても、あなたは元のまま。死ねばもちろん灰になってなくなります。つまらないじゃないですか?私と同じ信仰の道に入りませんか?そうすれば生きていて、『黄金の仏体』になることができるんです。」
「黄金の仏体」と言われてもまったくピンと来ません。病気が治るともなんとも言われなかったのです。しかし、ここはひとつ、信仰の道に入ろうと思いました。

『お題目』というのを教えていただき、「これをただ一生懸命となえなさい」と言われたんです。ここで断っておきますが、私は別に、『お題目』を勧めるためにこれを書いたんじゃありません。ただ話としてどうしても避けて通れないことなのです。「黄金の仏体になる」こと、これはこの本のキーワードになります。

私は何もかも分からないまま、とにかく修行したのです。体を治そうなんていうことも忘れていたのかもしれません。
しかし、なんだか分かりませんが、急に元気が出てきたのです。「放っておくと死ぬ」といわれたとき出た元気とは違いからだの芯のほうから元気になっていくような気がしました。

さて、三ヶ月ほど経ち、暫くぶりで医者に行き、レントゲン写真を撮ってもらったのです。写真を見ながら「どうもおかしいですな。つい三ヶ月前には確か大きな穴があいてたんですが、今は影も形もないです。といぶかりながら言うのです。この言葉には私もびっくりしたのです。

「穴があいてないですって?」と言いながら、ひょっとして「これは『お題目』のご利益かもしれない」と思ったのです。
それでは信仰は「病気治しのおまじない」のようなものでしょうか。「黄金の仏体」は、おまじないの単なる結果なのでしょうか。

確かに、信仰を始めたばかりで病状がぐんぐんよくなっているんですから、そういうこともあるかもしれません。しかし、ただ結果が欲しいだけが信仰なら、なんと不毛なことでしょう。でも、病気が治ったことは何にも代えて嬉しかったのです。

それにしても「黄金の仏体とは?」「信仰、宗教って?」と、さらに分からないことばかりでした。
とにかく、この信者さんとの出会いが、大変に私の人生を変えていくことになりました。

   


 

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