HomeShopIkiwakuHelpLink
 
2002年10月  心をすます / 怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず
  心をすまし思えばいい
焦り、カッカ、痛い、ついいろんなことに過剰に反応してしまう、などがドロドロと心のにごった状態です。ドロドロと濁った水は、静かに眺めているとだんだんに泥は沈殿し澄んだ水になります。心もそれと同じようにドロドロが沈むまで焦らず静かにして待つと澄んだ心になります。

心を澄ますとついいろんなことに反応してしまうことがなくなります。
例えば、何かを感じたことが一念です。そして、なぜこうなったのだろうとかこうしてやるぞ!とつい尾ひれをつけて二念、三念と思ってしまいます。この二念、三念の思いがエゴです。心を澄ますとこのエゴがなくなり思い通りの結果が現われます。死ぬまでになんとか・・・という焦りはなくなるわけですから今をイキイキと生きることができます。
澄む:雑念がなくなる。「―・んだ心」      静かになる という意味もあります。
*待つ:それぞれの絶妙のタイミングというものがあります。待つことが最大の思いやりです。

怪力乱神かいりきらんしんを語らず」
戦国時代、織田信長は家来に報酬として領土を与えました。それにより家来は張り切り、どんどん力を大きくしていきました。豊臣秀吉は更に輪を掛けどんどん与えました。
それが徳川家康の時代には既に与える領土はなくなり、このままでは天下を治めることができない、これからは人格やにじみ出る知性でなければ治めることができないと感じ、ある時期、孔子の論語を取り入れました。
論語の「怪力乱神かいりきらんしんを語らず」を用いた際に、妖怪、神霊といった事は語るに足らない。つまり信じない。と受け止め、武士たるもの妖怪や幽霊など見えないものに怯えているとは何事だ。そんなものはないのだ!と見えない世界を排除してきました。それが現代にも受け継がれてきましが、この30年ほどの間に見えないものを改めて語る時代になりつつあります。

論語の「怪力乱神かいりきらんしんを語らず」という本当の意味は 妖怪や幽霊、不可解な力、不合理な神秘(超能力)などの見えないものは実はあるのだけれども、客観的に説明できないものは夢と同じで語っても無駄です。それを語り、深入りするとかえってややこしくなり過ちを起こすので、見えないものの有無は今は論じるのでもなく語らないでもおこう。という意味です。

見えない世界に振り回されていたのでは本当の幸せは顕現しません。
末法(今の時代)を無仏世と呼び、この時代に我々が想像しているような神々しい姿の仏様は現われません。56億7千万年後に始めて弥勒菩薩が現われると経典には示されています。
では、どういったところに仏様が現われるのでしょうか。それは、「現証正意げんしょうしょうい」といって、現象のご利益というところに御顕おんあらわれます。理屈などわからなくても現実に幸せが顕現していればそこに仏様が御顕おんあらわれた証です。

そうなるためには、始末の悪い、目に見えない諸々の悪因縁、諸々の囚われを一網打尽に打ち消すことです。
その方法をお釈迦様は法華経で教えられています。
唱え重ねて「妙」を知るのです。
「妙」とは世間一般の人から見れば「そんな馬鹿な!そんな不思議なことが起こるはずがない」といわれるような幸せな現象が現われるということです。

‐‐‐追伸‐‐‐
見えないものは確かに有るのです。
世の中の災いなどは一概にすべてが霊魂や因縁から来ているとは言えませんが、大方は見えないものが原因でおこっています。
ご信心に入ったとき、何かに災いされ精神分裂になった方と関わったり、私自身も憑依などを体験しました。そしてこの心と身体を全部使っていただこうとご信心の決意を更に固めました。
その私が今は語っていないのです。
これからは論語のように今は語らずで人々を教導させていただくか、あるいは語りながら教導させていただくか各々のやり方でやっていく。それが残された我々のクリエイティブな修行です。



      十月 (神無月) の言葉 

        ●● 縦の学習 その(一)
                「心をすまし おもえばいい」   ●●
                              
    供養
    生きた人を尊敬の心でねんごろにもてなすというのが真意。
    日本では死者の霊に供物を捧げて冥福を祈るとされているが偽り。
      ---各家のご法前(お仏壇)のお花はどちらを向いていますか?
         なくなった方に供えるのであれば向こうに向けるのが
         本当ですがお花はすべてこちらに正面がが向いています。
         中心は亡くなった方ではなく生きているこちらなのです。

    回向
        回--回転
        向--向く
                  向きをかえるの意。
           自分が受けるべき功徳を向こうに回してあげるということ
           なくなった方への回向も
           やはり生きている私たちのほうへ向けられるのです。
           ------子供や孫が修学旅行等でおみやげを買ってくる。
                 しかし「私はいいからお前お上がり。」といって
                 自分のほうに向けられたものを向こうに向ける。
                 子供や孫がよろこんで食べるのを見る方が
                 自分が食べた以上の喜びを感じる。
           

                    里の秋
           しずかな  しずかな    里の秋
           お背戸せどの   落ちる夜は
           ああ母さんと     ただ二人
           粟のみ 煮てます   いろりばた
        
           あかるい あかるい    星の空       
           鳴き鳴き    夜鴨の渡る夜は
           ああ父さんの     あの笑顔
           粟の実  食べては   思い出す

           さよなら さよなら  椰子やしの島
           お舟にゆられて    帰られる
           ああ父さんよ    御無事でと
           今夜も母さんと    祈ります


御教歌
   ---  心して 引けばこそ鳴れ 露深き
                    秋の山田に隠る鳴子も   --
         
   ---  心ざし 深く願わば 玉だれの
                    をすあげまかせまみえたまわん  ---

      「ご本尊は玉だれのごとく  信あつければ聖衆を拝む」 
	      ◎すずめを追っ払う鳴子も 生きてましますご本尊も
                 志を深く、厚く、しなければ目的は達成されない
      目に見えないものを目に見えないからといって片付けてしまったら
      それまで。目に見えないものを大事にするということがご信心。
      生きてまします仏様も目に見えないけれども実はいらっしゃる。
      ご本尊は御簾みすがかかっているので見えない。
      ところが志深く関わっていくことによりおまみえいただけます。

*出会いとチャンスは絶妙のタイミングで訪れる
イキイキワクワクルンルンかい


 
   


 

  by Google